パール下中記念館(※非公開テスト版) | 下中記念財団

「平和」という木に 「教育」という水を

「平和」という木に 「教育」という水を

パール下中記念館(※非公開テスト版)

Pal-Shimonaka Memorial Hall

歴史的資料と共に眠る
世界平和を祈念した
二人の精神

ラーダービノード・パールと下中彌三郎。インドと日本で生まれ、同じ世界平和を求めるなかで出会った2人の精神を記念するための場所が、箱根の芦ノ湖湖畔にあります。1974年(昭和49年)に開館した「パール下中記念館」には、ご遺族から寄贈されたパール博士の書簡や原稿をはじめとした遺品や下中彌三郎の思い出の品々、東京裁判関連の資料などが展示されています。

ソファーのパール ポートレート
昭和27年(1952)招聘されて来日時のパール。帝国ホテルのロビーにおける記者会見で、博士は語気鋭く、東京裁判によって正義は失われ、法の真理は喪失したと前置きして、「日本はアジアの先達である。日本の美わしい伝統と誇りを呼びもどし、戦争で示したあの勇気とエネルギーを、世界の平和樹立のために、国際正義の確立のために示して欲しい」と呼びかけた。新聞やラジオはこれを大きく取り上げた。11月11日羽田を発つまでの二十七日間パールの言動が新聞や電波にのらない日はなかった。
左:写真「パール夫人」(〜1948没)
夫人は東京裁判のさなかに重態におちいったが、急ぎ見舞いに戻った博士を逆にはげました。「あなたは日本の運命をさばく重大な任務の身、私は終わるまで死にませんから早くお帰り下さい」と。裁判が終わってパールが国に帰り報告すると就容として息を引き取ったという。これを聞いた下中は自ら施主となって築地本願寺で追悼大法要を営み、パールは涙を流して喜んだという。
右:極東国際軍事裁判(東京裁判)にのぞむパール
法服を着用して法廷判事席の傍らに立つ。昭和21年(1946)。(プラサント・パール氏寄贈)
左:パールのスナップポートレート写真
招聘されて来日時(昭和27年-1952)のものと推察される。
右:極東国際軍事裁判 連合国
11名の判事。昭和21(1946)年。後列向かって左端がパール。パールはほかの連合国判事より少し遅れて来日した。
高等法院判事証(1941年)
ベンガルのカルカッタ大学で発行されたパールの判事証書。上にイギリスの紋章(国章)が入っているのが見える。この頃インドはイギリス領であり独立(1947)前であった。この後1944年にカルカッタ大学総長に就任、1946年ネルー(後の初代首相)の指名を受けて極東軍事裁判のために判事として来日した。(プラサント・パール氏寄贈)
木村兵太郎の歌一首
A級戦犯として死刑になった木村兵太郎がパールへ贈った歌。「闇の世を照らすひかりのふみ仰ぎこころ安けく逝くぞうれ志き」パール判決書をうけて詠まれたものであろう。木村は昭和23年(1948)12月23日にほかの6名とともに絞首刑になった。
東京裁判で絞首刑に処せられたA級戦犯7名の署名
昭和23(1948)年12月23日、午前零時に絞首台に向かう3分前に仏間で密かに花山信勝教戒師が差し出す筆を手錠のまま握り、各人が自筆した。右から土肥原賢二、松井石根、東條英機、武藤章、板垣征四郎、廣田弘毅、木村兵太郎。
「日本無罪論」出版祝賀会
出席者名簿(芳名録)昭和27年4月の占領終結を期して下中門下の田中正明が、東京裁判におけるパールの全員無罪の判決の抄訳を、『パール判事の「日本無罪論」』として出版した。下中はこれを喜び、自ら主催して出版祝賀会が参議院会館で開催された。この会において、パールを日本へ招こうという気運が高まり、機縁となって、この年の10月にパール招聘が実現する。C73昭和27年(1952)5月(田中正明氏 寄贈)
礼状 A級戦犯木戸幸ーら3氏よりA級戦犯
大島浩、木戸幸ー、佐藤賢了の3氏より、パール判決書を基にした「日本無罪論」に対する礼状の封筒。自筆の封筒を開いて巻紙に並べて貼付したもの。いずれも下中弥三郎宛に届いている。下中の名で彼らへ「日本無罪論」は贈られたのであろう。終身刑になった16名と有期刑2名は巣鴨拘置所に収監されていた。3氏は終身刑であったが、そこから返信は発している。
来信
大島浩からの礼状「日本無罪論」に対する礼状のうち、終身刑となった大島浩からの来信。日付と出版年から推測すると昭和27年(1952)12月19日に書かれたものであろう。前項の木戸幸一、佐藤賢了も終身刑となったが、3氏いずれも昭和30年(1955)に仮釈放されている。
「広島にて 左よりパール、下中」
パールは招聘されて昭和27年(1952)11月広島で4日間の世界連邦アジア会議に出席した。その折の写真。「日本無罪論」の出版記念会を機縁として下中はパール招聘に動き出した。手紙などで打診をしたところ快諾を得て、世界連邦アジア大会に招くこととして準備を進め、予定通りパールは10月16日羽田空港に降り立った。銀髪を交えた長身の博士が大きな手を差しのべて下中と長い握手を交わした。これが下中・パールの最初の出会いである。下中とパールは全国を共に講演会や遊説や慰問に回った。11月11日の離日までともに行動した。通訳はインド独立運動に活躍したナイル、各大学での講演会ではインドの古代思想と仏陀の平和哲学を説き、またガンジーの愛弟子であるパールは、不服従、非暴力の真理を説いた。
パール判決書の合本
日本文、約100万字、合計1200ページ。パールが来日した折に、判決文全文の翻訳されたものがないことを嘆いたので,下中は快くこれに応え、平凡社の総力を挙げ、印刷所をはげまして、20日間でパールの在日中に完成させた。パールは大いに感じ入り,喜んだという。それこそ下中ならではの離れわざであった。
拓本 「大亜細亜悲願之碑」
広島本照寺境内に建立されたパールの「大亜細亜悲願之碑」昭和27年,世界連邦アシア会議に参加したパールが、同寺住職の筧氏のもとめに応じて揮毫した詞を基に碑文にしたものの拓本 昭和27年(1952)11月5日。(筧義章氏 寄贈)
世界連邦運動と世界連邦アジア会議
昭和27年(1952)11月3〜6日、原爆被災の地、広島での4日間の世界連邦アジア会議は成功し画期的なものとなった。これに出席して演説したパールの参加によって一段の光彩を放った。またパールは、福岡、大阪で戦争犠牲者の大慰霊祭に臨み、遺族に合唱して共に涙を流しこれを慰めはげました(写真:右)。この世界連邦アジア会議は、下中が運動に参画した翌年の1月に、評議員会で「大きく動くには世界連邦アジア会議をやってみるとよい」と提案して、満場一致で賛成され、その準備委員長に就任することになったことから始まった。下中の考える世界連邦とは、世界のすべての国を国連に加盟させて、民間の代表者も加えて、国連総会を各国の取決めの最高機関とし、各国の軍備を撤廃させる、というものであった。
「箱根国際聖霊殿前での記念撮影」
パールは偉大な法律学者であるとともにやさしい心の持ち主で、忙しい日程を割いて東条英機未亡人母娘を自宅に弔問し、また下中とともに松井石根が建立した興亜観音に下中と詣でて松井文子夫人にねんごろに哀悼の意を伝え慰めた。その社である聖霊殿での記念撮影の様子。パールは、1952年の忙しい日程を割いて,東京裁判で死刑になったA級戦犯7人の遺族を自ら訪ね慰問している。
写真 箱根(伊豆山)にて パールと下中
伊豆山の興亜観音を訪問した途上の写真。下中はこの二十七日間の印象を次のように語っている。「私は、親しくパールさんにつきあって、パールさんの思想の一端をジカに感じたが、パールさんは法律学者であるが単なる法律学者ではない。思想家であり、哲学者であり、同時にマハトマ・ガンジーの意志を継承する全人類愛の使徒である。語るところ理路整然、説くところ悉く人類愛のほとばしりであり、平和への熱願でないものはない。…」
写真 「相馬愛蔵宅にて」
インド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースの墓とボースをかくまった頭山満の墓にも詣でて、敬虔な祈りをささげた。下中はその人柄にすっかり打たれた。墓に詣でたパールは都下調布の相馬愛蔵・黒光夫妻を訪れた。前列左より黒光・愛蔵・うしろボース長女徹子さん
芳名録 パール博士を囲む会
昭和27年,パール博士を迎えるための歓迎委員会を組織、下中が委員長となり東京會舘で歓迎会を開いた、とされるが、日付は11月4日であり、広島で世界連邦アジア会議を開催(11月3日〜6日)されているさなかである。飛行機でトンボ帰りしたか?。翌年か?不明。(田中正明氏寄贈)
軸
「三十年元旦の歌3首」下中が昭和30(1955)年元旦熱海ホテルにて詠んだ歌三首。この年の1月26日に妻ロク(通称みどり)が死去している。この年以降、控えていた海外出張に出かけることが多くなった。またこの年11月11日に世界平和アピール七人委員会を結成している。
世界平和アピール七人委員会の第1回アピール文
昭和30(1955)年 タイプ印刷、「7人委員のサイン入り」。この最初のアピール文は、世界平和のために国連の強化を要求し訴えたもので、全世界81カ国へ送られた。
左:ネルー歓迎会
インドのネルー首相とインデラ・ガンジーを迎えて下中は歓迎国民大会の委員長を務めた。二人の滞在は昭和32(1957)年10月の7日から13日であった。
昭和30(1955)年頃からの下中弥三郎
最晩年になっても下中は広範な活動を繰り広げた。中心は世界連邦運動だった。
世界連邦実現計画
道徳教員連合出版パンフレット「世界連邦の実現について」の原稿昭和34(1959)年2月25日
世界連邦実現計画
道徳教員連合出版パンフレット「世界連邦の実現について」の原稿昭和34(1959)年2月25日
扁額「一貫不動」
昭和34(1959)年夏とある。晩年に下中が好んだ言葉。ほかには「敬天愛人」を好んで揮毫した。
ケネディ書簡 下記の経過での下中弥三郎への返信
昭和35年(1960)11月、民主党のジョン・F・ケネディは、アメリカ第35代大統領に選任された。就任時にケネディは弱冠43歳。若々しいフロンティア精神に燃えて、前任大統領のソ連「封じ込め」政策は危険であり、やめる。
1. 戦略包囲網によるソ連封じ込め政策は危険であり、やめる。
2. 集団安全保障体制は終局的には戦争への道であり、改める。
3. 平和のためにソ連首相とのみ何度も話し合うように要望する。
4. 開発援助資金は国連内の機構に集めて援助するよう要望する。
5.恒久的な世界平和には国連が行政し立法し司法できるよう切り替える必要がある。この国連改造に傾注されるようお願いしたい。
6.その前提として国連を全世界的になものすべきである。中共その他の未加盟国を、この際一括加盟するよう指導されたい。
下中はこの反応を首を長くして待った。2月21日、折から帰国中の松平国連大使の歓迎会をクラブ関東で催した。その日その席で、ケネディからの返書が下中の手もとにとどいた。下中はことのほかによろこんだ。そしてケネディの返書が下中の要望に対して感謝と同意を示した信頼感に満ちた文章であることにいたく満足して、これを同志に披露し、飲みなれないカクテルを二杯まで飲みほした。そして、その夜、下中は機嫌よく帰宅し、風呂に入り、床に就いてそのまま永眠するのである。まことにケネディ書簡は、下中の劇的な生涯の終焉にふさわしい贈物であった。ケネディ大統領からの返書は次のごときものであった。
「親愛なる下中殿、わたくしが大統領にえらばれたあとに送って下さった大変友情のこもったメッセージに感謝します。わたくしは外国からかくも善意にみちた便りによって、もっとも勇気づけられています。このお便りは、世界の共同体の創造という目的において、広く一致していることを反映したものと確信します。わたくしは、わたくしの来る四年間の記録があなた方の信頼に応えうるよう希望しています。あらゆる善意をもって…… ジョン・F・ケネディ 下中弥三郎殿」
来信「ボイド・オア卿より」
ノーベル平和賞受賞者・元 WAW F初代会長ボイド・オア卿からの書筒。WAWFは世界連邦主義者世界協会(前身組織1947〜)であり、下中は1952年に広島の世界連邦アジア会議で来会したボイド・オアと会い,それ以来の関係である。下中はオアにもケネディ要請書の写しを送り,意見を求めていた。この返信は奇しくもケネディからの返信と同じ日に下中の手に届いた。
来信「ノーマン・カズンズより」
ノーマン・カズンズから下中のケネディ大統領に送った要請書に関する書筒。昭和36年(1961)2月15日にサタデーレビュー紙(ニューヨーク)から発せられた。下中が2月21日に没した後に届いたと考えられる。ノーマン・カズンズはジャーナリストとして昭和24年(1949)に広島を訪れ、なお残る惨状に驚き、「4年後のヒロシマ」を米国で出版し、原爆の悲惨さを訴え広め、原爆孤児400人に養育費を贈る運動などを展開した。下中は昭和28年9月にカズンズが再来日した際に初めて会っている。下中はカズンズにもケネディ要請書の写しを送り,意見を求めていた。
来信「ボイド・オアより」
トインビー書簡(謝辞)の件を伝える昭和30年+D175(1955)5月30日
パールが使用した万年筆、腕時計
左から極東国際軍事裁判の判決文にサインした万年筆、中はパール愛用の万年筆、右はパールが50年間愛用した腕時計。(左は岸信介氏、中・右はプラサントパール氏、奇贈)
パール博士愛用の木製机と椅子とステッキ
パール下中記念館の開館のためにインドから運ばれた。ご子息のプラサント・パール氏から奇贈されたもの。
左:「勲一等瑞宝章を受ける」
昭和41(1966)年、熟一等瑞宝章受けらるるためパール博士4回目の米日。左・パール、手前・インド大使、右・岸信介元総理、それぞれににつきそわれて。80才昭和41(1966)年11月4日
右:「パールさよならパーティ」
パール博士4回めの来日時のもの。椿山荘における”さよならパーティ”にて。80才右はナイル。
パールに贈られた勲一等瑞宝章の証書
昭和41年(1966)10月4日、昭和天皇、佐藤栄作首相時であった。下中も没後、勲一等瑞宝章を昭和36(1961)年に受けている。
パール博士への日本大学からの学位授与認証書(英文)
パール博士への日本大学からの名誉学位証書
日本大学名誉法学博士証書。昭和41(1966)年10月3日。勲一等瑞宝章を受ける前日に受けている。
日本大学からパールへ贈呈された法学博士号の名誉学位証書の英文版。
書筒
パールより田中正明氏あて手紙。田中は下中の多くの活動に協力したが,ことにパールと下中の間に立って、なにくれとなく働いた。手紙の冒頭でパールはたいへん親しげに呼びかけていることから信頼されていたことが窺える。昭和41年-1966-11月9日(田中正明氏 寄贈)
下中弥三郎とラダ・ビノード・パール
下中はパールよりも7才年長であったが、博士に私淑する下中の態度は敬虔そのものであった。出会ったときに下中は74才、パールは67才。博士もまた下中をかぎりなく畏敬していた。下中とパールはその生い立ちがよく似ている。二人とも寒村の貧農の家に生まれ、幼にして父と死別、母の手一つで育てられて、刻苦勉励して世に出た人たちである。
下中の一年祭ののち記念撮影
下中の没後、一年祭が東本願寺(浅草)で行われ、1952年以来パール3回目の来日となった。その際パールが弔辞を読んでいる、題して「パールのみた下中弥三郎」である。
パールと下中の寄せ書き
パールのものはベンガル誤で書かれている。訳したものが下中のものと並べてパール下中記念館の入り口ホールに掲げられている。
「すべてのものをこえて人間こそ真実である。この上のものはない。」
「世界連邦 平和への道 外にあらじ 国人すべて ここにあつまれ」

パール博士とはどんな人物だったのか?

パールの思想と東京裁判

パール下中記念館ホール

「東京裁判で被告人全員の無罪を説いたインド人裁判官」として知られるラーダービノード・パールは、1886年にベンガル地方のナディア県(現在はバングラデーシュ領)の貧しい家に生まれました。苦学してカルカッタの大学に進み、30代後半にはインドを代表する法学者となりました。

パールが専門とした古代ヒンドゥー法は、サンスクリット古典籍のなかからインドの伝統的慣習を近代社会に合わせて再編成し、ヒンドゥーの思想や知にもとづいた独自の法体系を構築するものです。パールの考えによれば、法は「リタ」と呼ばれる宇宙の真理や原理に基礎付けられたものでなくてはなりません。そのため彼は、時の政治状況や権力者の意思によって法がご都合主義的に操作されることに対し、いつも厳しい批判の目を向けてきました。

東京裁判の判事への就任が決まったのは1946年4月29日、60歳のときでした。裁判のあいだパールが専念したのは、法廷に提出する意見書の執筆です。後に「パール判決書」として知られることになるこの文書は、「平和に対する罪」「人道に対する罪」が事後法であることを強調し、勝者が敗者を一方的に裁く東京裁判のあり方を根底から批判するものでした。このような事後法が認められれば、将来の戦勝国も自分たちの都合のよいように裁くことができるという誤った認識を国際社会に広めることになり、それは侵略戦争の拡大につながることになると考えたのです。

ケネディ書簡(パール下中記念館蔵)

パールと下中を結んだガンディーと世界連邦の理想

「パール判決書」は、多くの日本人から歓迎されました。下中彌三郎もそのひとりです。下中は戦前戦中の言論活動により戦後6年にわたり政治的な活動を禁じられていましたが、処分が解かれた1951年から世界連邦運動に参画していました。そして1952年、自ら企画した広島の「世界連邦アジア大会」にパールを招待したのです。

ガンディーの思想を尊重したパールと、大正期にガンディーを理想の人と崇めていた下中はすぐに意気投合しました。箱根の芦ノ湖畔は、そんな2人が世界情勢や日本とインドの未来についた語り合った場所です。

講演などでパールはたびたびガンディーの思想に触れ、日本がアメリカに追従し、再軍備を進めていることに警鐘を鳴らしました。パールも下中も、アジアの連帯から新しい世界秩序と平和を模索していくべきと考えていましたが、1950年代の日本はその思いとは逆の方向へ進んでいくことになります。

その後も2度にわたり来日し、日本との関係を大切にしたパールは、真理のために妥協を許さない姿勢を最後まで貫きました。アメリカの原爆投下や核兵器を前提とするかのような冷戦構造を批判するとともに、日本の植民地経営や個々の戦争行為に対する道徳的な責任についても深い反省を促していました。このようなパールの思想や主張の全体像とともに「パール判決書」をしっかりと捉えなおすことは、今なお重要な意義をもっているのではないでしょうか。

パール博士 年譜

1886年 ベンガル地方のナディア県(現在はバングラデーシュ領)に生まれる。
1989年 父親が急死。以後、母の手で育てられる。
1903年〜ラージシャーヒー・カレッジ(現在はバングラデーシュ領)、カルカッタのプレジデンシー・カレッジで数学を学ぶ。
1905年 ナリニバーラーと結婚。
1910年 インド北部、アラハバードでインド連合州会計院書記生として就職。
1911年 カルカッタ大学理学部、法学部を卒業。
1920年 カルカッタ大学法学修士となる。
1923年 カルカッタ大学法学部教授に就任。
1924年 カルカッタ大学「タゴール記念法学講演」の講師にはじめて選出された。
1941年 カルカッタ高等裁判所判事に就任。
1944年 カルカッタ大学総長に就任(〜1946年)。
1946年 極東国際軍事裁判(〜1948年)にインド代表判事として派遣された(途中、妻の病気を理由に何度か一時帰国をしている)。
1952年 約4年半ぶりの再来日。下中彌三郎の招聘で世界連邦アジア会議に参加、日本各地をまわる。同年、国際連合国際法委員会委員に就任(〜1967年)。
1953年 下中彌三郎の招聘で3度目の来日。
1957年 国際連合常設仲裁裁判所判事に就任。
1966年 清瀬一郎、岸信介らの招聘で4度目の来日。
1967年 カルカッタの自邸で死去。80歳。

パール博士のことば

日本の為政者、外交官および政治家らは、おそらく間ちがっていたのであろう。またおそらくみずから過ちを犯したのであろう。しかしかれらは共同謀議者ではなかった。

──朝日新聞法廷記者団『東京裁判(中)』

私は世界の指導者のなかで、平和にたいして信頼できる唯一者は聖雄ガンヂーであると確信する。

──パール『平和の宣言』

社会的にいかに弱い、貧しい人間でも、法律の前には、病める者、力強きものと平等である。

──パール『平和の宣言』

みなさんは、つぎの事実を隠すことはできない。それはかつてみなさんが、戦争という手段を取つたという事実である。

──パール『平和の宣言』

誰も支持してくれなくとも、自分が真実と思えば、最後までそれを貫くべきです。

──パール博士歓迎事務局編『I Love Japan──パール博士言行録』

法というものは、その適用すべき対象をあれこれと選ぶことが出来ないものです。あれを罰してこれを罰しないということは出来ません。

──パール博士歓迎事務局編『I Love Japan──パール博士言行録』

友人のみなさん、私があなたがた全部にとくにお願いしたいことは、人類の未来に、そしてあなたがた自身の将来に、あなたがたが責任の一部になっているということを忘れないでいただきたいのです。

──パール博士歓迎事務局編『I Love Japan──パール博士言行録』

アクセス

Access

下中記念財団の地図
ケネディ書簡(パール下中記念館蔵)
ケネディ書簡(パール下中記念館蔵)
1960年に大統領選に勝ったジョン・F・ケネディの演説に深く共感した下中弥三郎は、この若き大統領に世界平和に関する書簡(6項目の要望書)を送った。この手紙は、その書簡に対するケネディからの返事で、下中が亡くなった当日1961年2月21日に届いた。そこには、友情への感謝と、下中が目指した「世界共同体」へのケネディ自身の共感が述べられていた。

住所:〒250-0521 神奈川県足柄下群箱根町箱根408-1
現在、見学の受付は行っておりません。
再開の際にはホームページにてご案内申し上げます。

記念館に隣接して、出版関連13維持団体等によって維持・運営がなされいる出版平和堂があります。そのお堂内には、日本の出版界に多大な貢献なさった物故者のお名前と功績が刻まれた記銘板が掲げられています。

公益財団法人 下中記念財団
(電話: 03-5315-0154/e-mail: info@shimonaka.or.jp)
※下中記念財団は、1991年(平成3年)よりパール下中記念館の維持·管理業務を行なっています。

交通:
(1)小田原駅(JR、小田急)ご利用の場合
「箱根町港行」箱根町線(箱根登山バス)に乗車、「箱根町港」で下車、徒歩(約12分)。場合によっては以下のバスに乗り換え(ただし、本数がたいへん少ない)
「元箱根港」から「三島駅行」(東海バスオレンジシャトル)に乗車、「御堂前」下車すぐ
(2)箱根湯本駅(箱根登山鉄道)ご利用の場合
「箱根町港行」箱根町線(箱根登山バス)に乗車、「箱根町港」で下車、徒歩(約12分)。場合によっては以下のバスに乗り換え(ただし、本数がたいへん少ない)
「元箱根港」から「三島駅行」(東海バスオレンジシャトル)に乗車、「御堂前」下車すぐ

※車でお越しになる場合には、見学お申し込みの際にその旨をお伝えください。(駐車スペース2台)

下中記念財団の地図

下中弥三郎 / 下中記念財団について

本財団は「教育」への貢献を目指し、科学研究や留学生を対象とした助成から、映像記録アーカイブや百科事典の情報基盤整備まで、幅広い活動を支援しています。そして「平和」の意思をアピールし続けることに、重要な使命を感じています。

最初に戻る
心はころころするものである

下中弥三郎のことば