パール下中記念館(※非公開テスト版) | 下中記念財団

「平和」という木に 「教育」という水を

「平和」という木に 「教育」という水を

パール下中記念館(※非公開テスト版)

Pal-Shimonaka Memorial Hall

歴史的資料と共に眠る
世界平和を祈念した
二人の精神

ラーダービノード・パールと下中彌三郎。インドと日本で生まれ、同じ世界平和を求めるなかで出会った2人の精神を記念するための場所が、箱根の芦ノ湖湖畔にあります。1974年(昭和49年)に開館した「パール下中記念館」には、ご遺族から寄贈されたパール博士の書簡や原稿をはじめとした遺品や下中彌三郎の思い出の品々、東京裁判関連の資料などが展示されています。

1. 来信「大島活より」
A級戦犯大品造,木戸幸一,佐藤質了の各氏よりパール判決書「日本無罪論」に対する礼状
A letter from Hiroshi Oshima
Letters of thanks to Dr. Pal for his work as the judge in the Tokyo Military Trials from three A-grade war criminals.
2. 来信「木戸幸ーより」
A級戦犯木戸幸ーよりパール判決書「日本無罪論」に対する礼状
A letter from Koichi Kido
3. パールより田中正明氏あて手紙
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5.
6. 「日本無罪論」出版祝賀会 出席者名簿(芳名録)
田中正明著「日本無罪論」出版祝賀会出席者名簿,下中が主催し、この会が起縁となってパール招へいが実現する。
List of attendants of the celebration of publishing of “Japan is not guilty” by Masaaki Tanaka sponsored by Shimonaka. This even led to the invitation of Dr. Pal to Japan.
7. 来信「ノーマン・カズンズより」WAWF会長 ノーマン・カズンズから下中のケネディ大統領に送った要請書に関する書筒(田中正明氏 寄贈・所蔵 昭和36年2月15日)
A letter to Shimonaka from Norman Cousins, president of WAWF. Letter concerning the weitten request sent to President Kennedy by Shimonaka.
8. 来信「ボイド・オア卿より」ノーベル平和賞受賞者・元 WAWF会長ボイド・オア卿からの書筒(田中正明氏寄贈・所蔵 昭和36年1月9日)
A letter to Shimonaka from Boyd Orr, winner of the Nobel Prize and Peace and ex-president of the WAWF
9.
10. パールより田中正明氏あて手紙(田中正明氏 寄贈・所蔵)
11. ○○○○●○○○○●
12. 来信「ボイド・オアより」(48)の旨を伝えたボイド・オアから下中への手紙(田中正明氏 寄贈所蔵)
A letter to Shimonaka from Boyd Orr transferring Toynbee’s apology.
13. 東京裁判で絞首刑に処せられたA級戦犯7名の署名
昭和23年12月23日、午前零時に絞首台に向かう3分前に仏間で密かに花山信勝教戒師が差し出す筆を手錠のまま握り、各人が自筆した。
14. 日大からの名誉学位証書
15. パール氏に贈られた勲一等瑞宝章証書
16. パールと弥三郎の寄せ書き
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18. タイプ「7人委員のサイン入り」昭和30年11月11日 ケネディ書簡
In November 1955, the Committee of Seven Appeal for World Peace was formed with Shimonaka as one of the members. The Committee published its first appeal that demanded reinforcement of the U.N.; This was sent to the rulers o 81 countries all over the world.
19.
20.
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22. 東京裁判記錄 このうちタイプ印書のパール判決文の合本
パール判決書の合本(原本)日本文 約100万語,1,200ページ
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24. ネルー歓迎会 ネルー首相とインデラ・ガンジーを迎えて(昭和32年10月)
パスポート 1941年来日の時
パール原稿コピー「世界法による世界平和」(パール言行録)
With the attendance of Prime Minister Nehru and Indira Gandhi.
25. 軸 「三十年元旦の歌3首」(昭和30年1月1日)
昭和30年元旦熱海ホテルにて詠んだ歌三首
26. 軸「合理配給」(斉藤道太郎氏 寄贈 昭和13年 8月13日)
昭和13年8月北京に新民印書館を設立し、副社長に就任したときに,同書館の方針として掲げた三ヶ条
“Rational Distribution”” by Shimonaka
When Shinmin-Inshokan publishing company was founded in Peking in August 1938 and he was appointed as Vice-President, Shimonaka put up three principles of management entitled “”Rational Distribution”
27. 世界連邦実現計画 道徳教員連合出版パンフレット 「世界連邦の実現について」の原稿(昭和34年2月25日)
Shimonaka’ s manuscript: for a pamphlet: On the plan for the World Federation, published by Dotoku-Kyoiku-Rengo-Shuppan.
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29. 「プラサド大統領歓送のことば」(昭和39年9月)
プラサド・インド大統領来日に際し,歓迎国民委員会委員長として述べたあいさつの原稿
Manuscript of Shimonaka s welcoming message for President Prasad when he visited Japan. Shimonaka served as Chairman of the Narional Welcome Committee for President Prasad.
30. 芳名録 パール博士を囲む会(田中正明氏 寄贈 昭和27年11月4日)
昭和27年,パール博士を迎えるための歓迎委員会を組織、下中が委員長となり帝国ホテルで歓迎会を開いた。
31. パール博士の万年筆 極東国際軍事裁判の判決文にサインした万年筆 岸信介氏寄贈
パール愛用の万年筆
腕時計 パールが50年間愛用
Dr. Pal’s fountain pen
Dr. Pal used this pen to make his signatures on the decisions in the international
Military Trials for the Far East.
32. パール博士がお詣りした伊豆山の興亜観音中支派遣軍司令官・松井石根大将が日支両軍の英霊を祀るために建立
Koa Kannon erected by General Iwane Matsui at Izusan, Hakone.
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34. 写真「広島にて左よりパール・下中」
At Hiroshima. From left, Dr. Pal, Shimonaka
35. 東本願寺に於て記念撮影
36. 箱根に遊ぶパール博士と下中翁
37. 写真「箱根国際聖霊殿前での記念撮影」
Commerorative photograph taken in front of the Hakone International Monument for the Soul.
38.
39. 左 パール4回目の米日,インド大使,岸信介元総理につきそわれ熟一等瑞宝章を受けらる。80才
右 写真「パールさよならパーティ」パール4回めの来日 椿山荘における”さよならパーティ”にて。80才 石ナイル 昭和41年10月1日
When visiting Japan for the fourth time, Dr. Pal was awarded the First Class Order of the Sacred Tresure by the Japanese Government. He was 80 years old then and accompanied by the Indian Ambassador and ex-premier Kishi on that occa-sion.
Farewell party for Dr. Pal at Chinzanso on his fourth visit to Japan. Dr. Pal was 80 years old then. The gentleman at the right is Mr. A.M. Nair.
40. 左 写真「パール夫人」 夫人は東京裁判のさ中に重態におちいったが、見舞いに戻った博士を逆にはげました。「あなたは日本の運命をさばく重大な任務の身,早くお帰り下さい」と
右 プラサント・パール氏 極東国際軍事裁判にのぞむパール法廷判事席
Mrs. Pal was seriously ill during the lokyo Military Trials. For her husband who hurried back to visit her, She had words of encouragement, “”You have the important duty to judge the future of Japan. Go back to your work and don t worry about my illness.
41. 右 極東国際軍事裁判連合国 11名の判事 1921年
42. 写真「相馬愛蔵宅にて」インド独立の志士ビハリ・ボースの基に詣でたパールは都下調布の相馬愛蔵・黒光夫妻を訪れた。前列左より黒光・愛蔵・うしろボース長女徹子さん
At the residence of Aizo Soma Dr. Pal paid homage to the grave of Rash Behari Bose, an Indian patriot and then visited Mr. and Mrs. Aizo Soma at their home Chofu Tokyo. In the front row from left, Mrs. Soma, Mr. Soma. Behind is Miss Tetsuko Bose first daughter of Bose.
43. プラサント・パール 奇贈 パール博士愛用の木製机
Wooden table

パール博士とはどんな人物だったのか?

パールの思想と東京裁判

パール下中記念館ホール

「東京裁判で被告人全員の無罪を説いたインド人裁判官」として知られるラーダービノード・パールは、1886年にベンガル地方のナディア県(現在はバングラデーシュ領)の貧しい家に生まれました。苦学してカルカッタの大学に進み、30代後半にはインドを代表する法学者となりました。

パールが専門とした古代ヒンドゥー法は、サンスクリット古典籍のなかからインドの伝統的慣習を近代社会に合わせて再編成し、ヒンドゥーの思想や知にもとづいた独自の法体系を構築するものです。パールの考えによれば、法は「リタ」と呼ばれる宇宙の真理や原理に基礎付けられたものでなくてはなりません。そのため彼は、時の政治状況や権力者の意思によって法がご都合主義的に操作されることに対し、いつも厳しい批判の目を向けてきました。

東京裁判の判事への就任が決まったのは1946年4月29日、60歳のときでした。裁判のあいだパールが専念したのは、法廷に提出する意見書の執筆です。後に「パール判決書」として知られることになるこの文書は、「平和に対する罪」「人道に対する罪」が事後法であることを強調し、勝者が敗者を一方的に裁く東京裁判のあり方を根底から批判するものでした。このような事後法が認められれば、将来の戦勝国も自分たちの都合のよいように裁くことができるという誤った認識を国際社会に広めることになり、それは侵略戦争の拡大につながることになると考えたのです。

ケネディ書簡(パール下中記念館蔵)

パールと下中を結んだガンディーと世界連邦の理想

「パール判決書」は、多くの日本人から歓迎されました。下中彌三郎もそのひとりです。下中は戦前戦中の言論活動により戦後6年にわたり政治的な活動を禁じられていましたが、処分が解かれた1951年から世界連邦運動に参画していました。そして1952年、自ら企画した広島の「世界連邦アジア大会」にパールを招待したのです。

ガンディーの思想を尊重したパールと、大正期にガンディーを理想の人と崇めていた下中はすぐに意気投合しました。箱根の芦ノ湖畔は、そんな2人が世界情勢や日本とインドの未来についた語り合った場所です。

講演などでパールはたびたびガンディーの思想に触れ、日本がアメリカに追従し、再軍備を進めていることに警鐘を鳴らしました。パールも下中も、アジアの連帯から新しい世界秩序と平和を模索していくべきと考えていましたが、1950年代の日本はその思いとは逆の方向へ進んでいくことになります。

その後も2度にわたり来日し、日本との関係を大切にしたパールは、真理のために妥協を許さない姿勢を最後まで貫きました。アメリカの原爆投下や核兵器を前提とするかのような冷戦構造を批判するとともに、日本の植民地経営や個々の戦争行為に対する道徳的な責任についても深い反省を促していました。このようなパールの思想や主張の全体像とともに「パール判決書」をしっかりと捉えなおすことは、今なお重要な意義をもっているのではないでしょうか。

パール博士 年譜

1886年 ベンガル地方のナディア県(現在はバングラデーシュ領)に生まれる。
1989年 父親が急死。以後、母の手で育てられる。
1903年〜ラージシャーヒー・カレッジ(現在はバングラデーシュ領)、カルカッタのプレジデンシー・カレッジで数学を学ぶ。
1905年 ナリニバーラーと結婚。
1910年 インド北部、アラハバードでインド連合州会計院書記生として就職。
1911年 カルカッタ大学理学部、法学部を卒業。
1920年 カルカッタ大学法学修士となる。
1923年 カルカッタ大学法学部教授に就任。
1924年 カルカッタ大学「タゴール記念法学講演」の講師にはじめて選出された。
1941年 カルカッタ高等裁判所判事に就任。
1944年 カルカッタ大学総長に就任(〜1946年)。
1946年 極東国際軍事裁判(〜1948年)にインド代表判事として派遣された(途中、妻の病気を理由に何度か一時帰国をしている)。
1952年 約4年半ぶりの再来日。下中彌三郎の招聘で世界連邦アジア会議に参加、日本各地をまわる。同年、国際連合国際法委員会委員に就任(〜1967年)。
1953年 下中彌三郎の招聘で3度目の来日。
1957年 国際連合常設仲裁裁判所判事に就任。
1966年 清瀬一郎、岸信介らの招聘で4度目の来日。
1967年 カルカッタの自邸で死去。80歳。

パール博士のことば

日本の為政者、外交官および政治家らは、おそらく間ちがっていたのであろう。またおそらくみずから過ちを犯したのであろう。しかしかれらは共同謀議者ではなかった。

──朝日新聞法廷記者団『東京裁判(中)』

私は世界の指導者のなかで、平和にたいして信頼できる唯一者は聖雄ガンヂーであると確信する。

──パール『平和の宣言』

社会的にいかに弱い、貧しい人間でも、法律の前には、病める者、力強きものと平等である。

──パール『平和の宣言』

みなさんは、つぎの事実を隠すことはできない。それはかつてみなさんが、戦争という手段を取つたという事実である。

──パール『平和の宣言』

誰も支持してくれなくとも、自分が真実と思えば、最後までそれを貫くべきです。

──パール博士歓迎事務局編『I Love Japan──パール博士言行録』

法というものは、その適用すべき対象をあれこれと選ぶことが出来ないものです。あれを罰してこれを罰しないということは出来ません。

──パール博士歓迎事務局編『I Love Japan──パール博士言行録』

友人のみなさん、私があなたがた全部にとくにお願いしたいことは、人類の未来に、そしてあなたがた自身の将来に、あなたがたが責任の一部になっているということを忘れないでいただきたいのです。

──パール博士歓迎事務局編『I Love Japan──パール博士言行録』

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下中記念財団の地図
ケネディ書簡(パール下中記念館蔵)
ケネディ書簡(パール下中記念館蔵)
1960年に大統領選に勝ったジョン・F・ケネディの演説に深く共感した下中弥三郎は、この若き大統領に世界平和に関する書簡(6項目の要望書)を送った。この手紙は、その書簡に対するケネディからの返事で、下中が亡くなった当日1961年2月21日に届いた。そこには、友情への感謝と、下中が目指した「世界共同体」へのケネディ自身の共感が述べられていた。

住所:〒250-0521 神奈川県足柄下群箱根町箱根408-1
現在、見学の受付は行っておりません。
再開の際にはホームページにてご案内申し上げます。

記念館に隣接して、出版関連13維持団体等によって維持・運営がなされいる出版平和堂があります。そのお堂内には、日本の出版界に多大な貢献なさった物故者のお名前と功績が刻まれた記銘板が掲げられています。

公益財団法人 下中記念財団
(電話: 03-5315-0154/e-mail: info@shimonaka.or.jp)
※下中記念財団は、1991年(平成3年)よりパール下中記念館の維持·管理業務を行なっています。

交通:
(1)小田原駅(JR、小田急)ご利用の場合
「箱根町港行」箱根町線(箱根登山バス)に乗車、「箱根町港」で下車、徒歩(約12分)。場合によっては以下のバスに乗り換え(ただし、本数がたいへん少ない)
「元箱根港」から「三島駅行」(東海バスオレンジシャトル)に乗車、「御堂前」下車すぐ
(2)箱根湯本駅(箱根登山鉄道)ご利用の場合
「箱根町港行」箱根町線(箱根登山バス)に乗車、「箱根町港」で下車、徒歩(約12分)。場合によっては以下のバスに乗り換え(ただし、本数がたいへん少ない)
「元箱根港」から「三島駅行」(東海バスオレンジシャトル)に乗車、「御堂前」下車すぐ

※車でお越しになる場合には、見学お申し込みの際にその旨をお伝えください。(駐車スペース2台)

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下中弥三郎 / 下中記念財団について

本財団は「教育」への貢献を目指し、科学研究や留学生を対象とした助成から、映像記録アーカイブや百科事典の情報基盤整備まで、幅広い活動を支援しています。そして「平和」の意思をアピールし続けることに、重要な使命を感じています。

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