「平和」という木に 「教育」という水を

「平和」という木に 「教育」という水を

パール下中記念館

Pal-Shimonaka Memorial Hall

歴史的資料と共に眠る
世界平和を祈念した
二人の精神

ラーダービノード・パールと下中彌三郎。インドと日本で生まれ、同じ世界平和を求めるなかで出会った2人の精神を記念するための場所が、箱根の芦ノ湖湖畔にあります。1974年(昭和49年)に開館した「パール下中記念館」には、ご遺族から寄贈されたパール博士の書簡や原稿をはじめとした遺品や下中彌三郎の思い出の品々、東京裁判関連の資料などが展示されています。

パール博士とはどんな人物だったのか?

パールの思想と東京裁判

パール下中記念館ホール

「東京裁判で被告人全員の無罪を説いたインド人裁判官」として知られるラーダービノード・パールは、1886年にベンガル地方のナディア県(現在はバングラデーシュ領)の貧しい家に生まれました。苦学してカルカッタの大学に進み、30代後半にはインドを代表する法学者となりました。

パールが専門とした古代ヒンドゥー法は、サンスクリット古典籍のなかからインドの伝統的慣習を近代社会に合わせて再編成し、ヒンドゥーの思想や知にもとづいた独自の法体系を構築するものです。パールの考えによれば、法は「リタ」と呼ばれる宇宙の真理や原理に基礎付けられたものでなくてはなりません。そのため彼は、時の政治状況や権力者の意思によって法がご都合主義的に操作されることに対し、いつも厳しい批判の目を向けてきました。

東京裁判の判事への就任が決まったのは1946年4月29日、60歳のときでした。裁判のあいだパールが専念したのは、法廷に提出する意見書の執筆です。後に「パール判決書」として知られることになるこの文書は、「平和に対する罪」「人道に対する罪」が事後法であることを強調し、勝者が敗者を一方的に裁く東京裁判のあり方を根底から批判するものでした。このような事後法が認められれば、将来の戦勝国も自分たちの都合のよいように裁くことができるという誤った認識を国際社会に広めることになり、それは侵略戦争の拡大につながることになると考えたのです。

ケネディ書簡(パール下中記念館蔵)

パールと下中を結んだガンディーと世界連邦の理想

「パール判決書」は、多くの日本人から歓迎されました。下中彌三郎もそのひとりです。下中は戦前戦中の言論活動により戦後6年にわたり政治的な活動を禁じられていましたが、処分が解かれた1951年から世界連邦運動に参画していました。そして1952年、自ら企画した広島の「世界連邦アジア大会」にパールを招待したのです。

ガンディーの思想を尊重したパールと、大正期にガンディーを理想の人と崇めていた下中はすぐに意気投合しました。箱根の芦ノ湖畔は、そんな2人が世界情勢や日本とインドの未来についた語り合った場所です。

講演などでパールはたびたびガンディーの思想に触れ、日本がアメリカに追従し、再軍備を進めていることに警鐘を鳴らしました。パールも下中も、アジアの連帯から新しい世界秩序と平和を模索していくべきと考えていましたが、1950年代の日本はその思いとは逆の方向へ進んでいくことになります。

その後も2度にわたり来日し、日本との関係を大切にしたパールは、真理のために妥協を許さない姿勢を最後まで貫きました。アメリカの原爆投下や核兵器を前提とするかのような冷戦構造を批判するとともに、日本の植民地経営や個々の戦争行為に対する道徳的な責任についても深い反省を促していました。このようなパールの思想や主張の全体像とともに「パール判決書」をしっかりと捉えなおすことは、今なお重要な意義をもっているのではないでしょうか。

パール博士 年譜

1886年 ベンガル地方のナディア県(現在はバングラデーシュ領)に生まれる。
1989年 父親が急死。以後、母の手で育てられる。
1903年〜ラージシャーヒー・カレッジ(現在はバングラデーシュ領)、カルカッタのプレジデンシー・カレッジで数学を学ぶ。
1905年 ナリニバーラーと結婚。
1910年 インド北部、アラハバードでインド連合州会計院書記生として就職。
1911年 カルカッタ大学理学部、法学部を卒業。
1920年 カルカッタ大学法学修士となる。
1923年 カルカッタ大学法学部教授に就任。
1924年 カルカッタ大学「タゴール記念法学講演」の講師にはじめて選出された。
1941年 カルカッタ高等裁判所判事に就任。
1944年 カルカッタ大学総長に就任(〜1946年)。
1946年 極東国際軍事裁判(〜1948年)にインド代表判事として派遣された(途中、妻の病気を理由に何度か一時帰国をしている)。
1952年 約4年半ぶりの再来日。下中彌三郎の招聘で世界連邦アジア会議に参加、日本各地をまわる。同年、国際連合国際法委員会委員に就任(〜1967年)。
1953年 下中彌三郎の招聘で3度目の来日。
1957年 国際連合常設仲裁裁判所判事に就任。
1966年 清瀬一郎、岸信介らの招聘で4度目の来日。
1967年 カルカッタの自邸で死去。80歳。

パール博士のことば

日本の為政者、外交官および政治家らは、おそらく間ちがっていたのであろう。またおそらくみずから過ちを犯したのであろう。しかしかれらは共同謀議者ではなかった。

──朝日新聞法廷記者団『東京裁判(中)』

私は世界の指導者のなかで、平和にたいして信頼できる唯一者は聖雄ガンヂーであると確信する。

──パール『平和の宣言』

社会的にいかに弱い、貧しい人間でも、法律の前には、病める者、力強きものと平等である。

──パール『平和の宣言』

みなさんは、つぎの事実を隠すことはできない。それはかつてみなさんが、戦争という手段を取つたという事実である。

──パール『平和の宣言』

誰も支持してくれなくとも、自分が真実と思えば、最後までそれを貫くべきです。

──パール博士歓迎事務局編『I Love Japan──パール博士言行録』

法というものは、その適用すべき対象をあれこれと選ぶことが出来ないものです。あれを罰してこれを罰しないということは出来ません。

──パール博士歓迎事務局編『I Love Japan──パール博士言行録』

友人のみなさん、私があなたがた全部にとくにお願いしたいことは、人類の未来に、そしてあなたがた自身の将来に、あなたがたが責任の一部になっているということを忘れないでいただきたいのです。

──パール博士歓迎事務局編『I Love Japan──パール博士言行録』

アクセス

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下中記念財団の地図
ケネディ書簡(パール下中記念館蔵)
ケネディ書簡(パール下中記念館蔵)
1960年に大統領選に勝ったジョン・F・ケネディの演説に深く共感した下中弥三郎は、この若き大統領に世界平和に関する書簡(6項目の要望書)を送った。この手紙は、その書簡に対するケネディからの返事で、下中が亡くなった当日1961年2月21日に届いた。そこには、友情への感謝と、下中が目指した「世界共同体」へのケネディ自身の共感が述べられていた。

住所:〒250-0521 神奈川県足柄下群箱根町箱根408-1
現在、見学の受付は行っておりません。
再開の際にはホームページにてご案内申し上げます。

記念館に隣接して、出版関連13維持団体等によって維持・運営がなされいる出版平和堂があります。そのお堂内には、日本の出版界に多大な貢献なさった物故者のお名前と功績が刻まれた記銘板が掲げられています。

公益財団法人 下中記念財団
(電話: 03-5261-5688/e-mail: info@shimonaka.or.jp)
※下中記念財団は、1991年(平成3年)よりパール下中記念館の維持·管理業務を行なっています。

交通:
(1)小田原駅(JR、小田急)ご利用の場合
「箱根町港行」箱根町線(箱根登山バス)に乗車、「箱根町港」で下車、徒歩(約12分)。場合によっては以下のバスに乗り換え(ただし、本数がたいへん少ない)
「元箱根港」から「三島駅行」(東海バスオレンジシャトル)に乗車、「御堂前」下車すぐ
(2)箱根湯本駅(箱根登山鉄道)ご利用の場合
「箱根町港行」箱根町線(箱根登山バス)に乗車、「箱根町港」で下車、徒歩(約12分)。場合によっては以下のバスに乗り換え(ただし、本数がたいへん少ない)
「元箱根港」から「三島駅行」(東海バスオレンジシャトル)に乗車、「御堂前」下車すぐ

※車でお越しになる場合には、見学お申し込みの際にその旨をお伝えください。(駐車スペース2台)

下中記念財団の地図

下中弥三郎 / 下中記念財団について

本財団は「教育」への貢献を目指し、科学研究や留学生を対象とした助成から、映像記録アーカイブや百科事典の情報基盤整備まで、幅広い活動を支援しています。そして「平和」の意思をアピールし続けることに、重要な使命を感じています。

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