「教育と平和」下中弥三郎の理念
About Yasaburou Shimonaka

百科事典を作った
出版界の巨人
下中弥三郎
出版業界では株式会社平凡社の創業者として知られていますが、教育運動、労働運動、農民運動、平和運動の指導者としても名声を博した人です。
下中弥三郎は、1878年(明治11年)、丹波立杭焼の発祥の地、兵庫県多紀郡今田(こんだ)村下立杭(しもたてくい)(現丹波篠山市今田町)に生まれました。
2歳で父親を、続けて7歳で祖父を亡くしたため家計の支えを奪われ、8歳のときに住家まで失い、日々の生活すらままならなくなります。小学校には3年間しか在学せず、すぐに陶工として立杭焼にたずさわって家計を助けました。そのため、十分な教育を受ける機会は失われましたが、周囲の人たちの助けもあり、小学校時代より独学に励みました。

1899年に小学校の教員検定試験合格、神戸市の小学校の代用教員になります。そして、1902年に上京。11〜18年に埼玉県師範学校、05〜07年に日本女子美術学校講師を務めます。10年には、中等教育の教員検定試験に合格。翌年、埼玉県師範学校に嘱託教員になり、翌年正教諭へと順調に教員としての地歩を固めます。14年には埼玉県師範学校を辞し、6月には『ポケット顧問 や、此は便利だ』を出版するために平凡社を創設します。自身の苦学の経験から、教育を受けなかった人たちにも自主的な学習のチャンスをもたらしたいという願いが強く、その後も、平凡社では百科事典、各種専門事典、図鑑をはじめとして各種レファレンスの刊行に力を注ぐことになります。

1919年には「啓明会」という教員組合を結成し、翌20年に第1回メーデーに参加し、主導します。農民運動にも深い理解を示し、1930年代からは国家社会主義の理論家として「大亜細亜協会」「大政翼賛会」などに積極的に参加、そのまま敗戦を迎えます。
戦後は、戦前の翼賛活動のために公職追放(47年)にあいますが、51年には追放解除。平凡社代表取締役社長に復帰します。
その後は、53年日本出版クラブ初代会長、56年出版文化国際交流会初代会長、57年日本書籍出版協会初代会長などを出版界の重職を歴任。59年には平凡社の社長を退き、会長になります。その間も、平和運動、世界連邦運動にも積極的にコミットし、55年には湯川秀樹らと世界平和アピール七人委員会を結成。61年には勲一等瑞宝章を授与されます。同年(昭和36年)2月21日、惜しまれつつ死去します。享年84歳。

下中弥三郎の〈最後のことば〉
1961年2月21日、J.F.ケネディ米大統領に出した世界平和に関する要望書への自筆サインの返書が届きました。その晩、下中弥三郎は親交ある世界連邦運動の指導者たちを招待してケネディ書簡を回覧し、食後にあいさつを述べました。このあいさつが彼の〈最後のことば〉となりました。
※一部、今日では差別的表現とされている言葉も出てきますが、歴史的な意味を鑑み、そのまま掲載します。
日本における世界連邦運動は、現在世界連邦建設同盟、世界連邦都市協議会、世界連邦日本国会委員会の三つの団体がありまして、その綜合力によって進められております。だんだんと組織が伸びてきて、日本の国民の四分の一の約二千五百万ばかりを今の組織の中に含んでおります。…中略…

日本における世界連邦運動はほかの諸国にくらべると、遅ればせに出発したにもかかわらず、運動自体はことに熾烈なものであります。しかもきわめて静かでありながら、大いに進んでいるところに面白いところがあります。日本はなんといっても平和憲法を保持しており、原水爆の被害をうけた唯一の国でもある点で、世界連邦を主張するつよさの条件は世界随一であると思う。つまり、世界平和を実現するためにどうしたらいいかということを発言するいわば権利があるわけだからそれをどんどん打ち出してゆけば、他の国もそれに必ずついてくるだろうということでやっております。…中略…
私がもう一言いいたいことは、それぞれの国があまりにも利己的であり過ぎる、わが国大事ということも大切ですが、あまりにも利己的でありすぎる。たとえばフランスは砂漠であんなふうにして原爆を実験してオドカシているが、その狙うところは、けっきょく石油にある。こんどのコンゴの問題にしても、ベルギーが狙うところは、地下資源をなんとかして続けて確保しようということです。こういうことで必要以上の混乱を起こしている。そういうことではほんとうにこまるのであります。…中略…
私はどうしても、地球は全人類の共有であるという考えかたを徹底して、そして地球の産物をもっとも適当な方法で全世界に配分すべきだと考えてくれるならば、いま起こっているような問題もみな解決するのではないか……自国に資源を具存しているからといって、その専有をつよく主張するのはまちがいであります。…中略…
はじめはただ法律的に、国連の構成を改造して世界連邦国家を!と単純に考えていたけれども、今ではそういうことは通用しないから、もっと社会性を含んだ基礎に立ってゆかなくてはならない。それにはどうしても思想の問題があります。つまり全人類は―つである。それから皮膚の色によって人類の高下はできるものではない。また、だれもが、黒人であれ白人であれ、あるいは黄色人であれ、あいの子であろうが、みな人類は手をつないで行くべきで、おなじようにつき合ってゆけば、そこに人間としての良さが出てくるものだということを、みんなが考えるように教育することが大事だと思います。……

下中記念財団とは
当財団は、故下中弥三郎の業績を記念し、その遺志を継承する組織です。広く科学技術の研究を行う教員や研究者を奨励し、学術および文化の発展に寄与することを目的とし、1962年(昭和37年)6月に財団法人として設立されました。初代の理事長は赤井米吉。理事は、当時東京大学総長だった茅誠司、哲学者の谷川徹三、フランス文学者の中島健蔵、物理学者の湯川秀樹の外、教育、出版、財界、政治など各界から広く集められました。2012年の4月1日には、内閣府の認定を受け、公益財団法人へ移行しました。
理事長のご挨拶
公益財団法人下中記念財団 理事長 藤井卓也

2022年は、歴史的に特別な年となりました。「人間はかくも残酷、冷酷になれるのか」、「情報化 IT化、グローバル化が進み歴史に多くを学んだはずの現代社会において、何故そのような非人間を指導者として崇める集団、政府、国家が跋扈するようになったのか」、「想定外の気候変動、パンデミックなどの災いはどうして繰り返し襲って来るのか」等等、人々が問いかけぬ日はない一年でした。
このように激動する世界の中で、我が国は「和を以て貴しとなす聖徳太子」、「生きとし生けるものの相互連関、全ての存在に長所を認める価値観、全てに感謝し自ら実践する社会奉仕を説いた空海」といった偉人を輩出したクニです。
先の問いかけに対する答えは、こうした先人の説法や実践活動の中にあるのではないでしょうか。正しく認識して、実践する意思と勇気を持てば、「一隅を照らす」ことが出来るのではないか、それが「下中記念財団」の設立理念であったはずです。
そうした理念のもと、第60回を迎えた「下中科学研究助成金事業」を継続・実施しました。コロナ感染再々拡大の影響もあって応募参加者が67名と減少する中、審査委員の方々のご努力とご熱意により質を落とすことなく例年の30名を若干下回ったものの28名の方に各30万円をお渡ししました。そのうち特に優秀と認められた方5名を選定し、ホームページに論文を掲載致しております。加えて、還暦を迎えた本事業を新たな時代の要請に沿ったものとすべく、7名の審査委員のうち新任2名をいずれも女性科学者とし、文・理の境を改める選任を心掛けました。
この間、箱根芦ノ湖を見下ろす地に建つ「パール・下中記念館」(覇権なき世界平和を目指す日印友好の象徴)の内部改修を進める一方、所蔵資料の保存・活用の為に最新テクノロジーを採用して一層幅広い方々の利用に供したいと準備しています。
其の他、人の移動を伴うインド事業、国立映画アーカイブ等観客動員を必要とする事業は、コロナ感染の再拡大により引き続き抑制せざるを得ませんでしたが、ECフィルムの配信を民族誌映画専門配信サイト「エトノスシネマ」(ethnoscinema.com)にて開始しました。
亦、当財団が支援しております「世界平和アピール7人委員会」主催の宇宙物理学者・池内了氏による講演会「天と地と人のつながり-私たちは宇宙のこども」が今秋丹波篠山市で開催され、“地球環境のバランスの乱れが様々な問題を生んでいる”等のお話しがございました。
ご挨拶の締めくくりに当たり、今期中の当財団事業に対してご寄附が必要な額(45万円以上)が集まりますと、長年私どもが目指して参りました「税額控除対象公益法人」の申請資格が得られることをご報告致します。どうか当財団に対しまして、皆様の引き続きのご支援ご鞭撻のほどをお願い申し上げます。
来る2023年、世界の平和を希求し、皆様の心に平安と太陽あれとお祈りいたします。
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